雪降りなば薫る春は遠からじ 御猪口になみなみ注いだはずの熱燗は、二口三口で消え失せていた。五合徳利を振ると、もう中身は空だ。 ジト目で向かいの席の雪路を睨むが、暖簾にハンドオフだった。いや、かなーり強烈な眼力だった筈だからむしろ、暖簾にラグビータックルなのだった。 飄々とした態度で大将、熱燗もう一本〜! なんて声高に叫ぶ雪路に呆れてものも言えず、お通しのイカの塩辛をちまちまとつつく。 居酒屋『行灯』。店先には赤提灯、入り口には暖簾。なんとも昔気質な大将が、趣味と意地で開いているような店が『行灯』だった。 店内を見回すと、カウンターで大将と朗らかに喋っている老人、テーブル席に常連客であろうサラリーマン二人組、そして二席しかない座敷を陣取っているオレと雪路。合計五人だ。 塩辛の三分の一が胃の中へ消えた頃には、大将が熱した徳利を濡らした布巾で覆って、座敷にやって来た。 大将は待ってしたー、とはしゃぐ雪路を一瞥して徳利をテーブルに置いた。 雪路がさっそく湯飲み――オレは御猪口だが、雪路は湯飲みで熱燗をやっていた――になみなみ注いだ。 と、大将がもう片方の手に何か持っている。――豚の角煮だった。 大将は目尻の皺が目立つ笑顔を雪路に向けた後、雪路の頭をぐしゃくじゃと撫でた。 カウンターの戻る大将。……正直、妬けた。 幸せそうな顔で角煮を頬張る雪路を眺めながら、御猪口を一思いに仰ぐ。――途端、視界が濁った。 元々オレは強い方ではない、一気に飲んだ代償だろう。 不審そうな視線を向ける雪路に、大丈夫だと言う。まぁ、もうそろそろ止めといた方が良さそうだな。 首を傾げながらも、また角煮と湯飲みに戻る雪路を見て、何故こんな飲んだ暮れに惚れたのだろうと思考を巡らせてみる。 ……あれは、小学四年生の頃だったか。初めてアイツ、桂雪路と――その時はまだ旧姓だったが――同じクラスになったんだよな。 同学年の中で群を抜いて可愛らしかった雪路は男子に人気があったが、外見より中身にかなり難があったので、好きになった者告白した者は見事に玉砕していった。 オレはアイツを好きになった者の一人だったけど、告白する勇気も、告白してフられた後また同じように友達としていられるかどうかもわからなかったので、告白はしなかった。 ……スゴかったなぁ、あの頃の雪路は。いや、今もハッチャけてるけど。中肉中背を超えない、フツーの女の子が男の子に(オレだけど)コークスクリューをキメるかなぁ。まぁコークスクリューだけじゃないけど。 ドロップキックがキマって嬉々と微笑んでるアイツの笑顔はまだ、忘れられそうにねぇわ……。 オレはビミョウな表情をして、御猪口に熱燗を注いだ。……徳利はもう随分と、軽くなっていた。 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ しばらくすると、四本目の五合徳利は空になっていた。テーブルの、三本の徳利が横たわっている――もう飲み終わった、という意味だ――様子を見て、オレは嘆息した。 やっぱ雪路は雪路だな、うん。小四からなんにも変わって……進歩してねぇ。 勘定を済ませようと、レジに向かう。オレがさっき割り勘だぞ、と切り出したら驚くことに、コイツ、財布を持ってきていなかった。 オレがあんま金持ってなかったらどうするつもりだったんだ、と訊いたら、大将ならツケといてくれるでしょ、とか言ってた。……大将。アンタ、こんな駄目人間にナメられてますよ。 すっかり顔見知りの老人とサラリーマン二人組に挨拶をして、代金を払った。 覚束無い千鳥足で、ふらふらと出入り口へ向かう。ガラガラと引き戸を開けて、店の外へ。 居酒屋の出口をくぐると、雪国であった。夜の底が白くなった。 おおぅ、というなんともわかりにくいリアクションを取る雪路だったがしかし、すぐに、雪だーっ! と叫んではしゃぎ回る。その仕草が、どことなく犬っぽい。 オレは犬タイプではなく猫タイプなので、寒威に身震いしながら白い息を吐いた。――うぅ、寒い。雪路に奢らされたから財布も寒い。さんざんだ。 ねぇねぇ、雪だよ雪! と、雪路が言ってきた。いい歳こいた女が何言ってんだ……。オレは、そーだねプロテインだね、と適当に相槌を打っておく。 「なんだよー、つまんないヤツねー。雪だよ、“雪”ー。……私は好きだな。お母さんお父さんから貰った大切な名前と、同じだし」 「――――。」 淋しそうに微笑む雪路の表情を見た途端、少し温かくなった気がした。 ま、今オレがすることと言えば、三次会はアンタの家ね、とかほざいてる狗を止めるくらいだろう。 ……押しかけて、あまつさえ、オレの虎の子のホワイト&マッカイを見つけられたらと思うと、雪路進軍死守はかなり重要なのだった。 続く。。。